少し前、あるプロスポーツ選手が私の勤務先を訪れました。それまでこのスポーツとはまったく無縁の人生を歩んできたのですが、ふとしたきっかけで彼の相談に乗ることになったのです。彼は言いました。「プロスポーツでもその他の社会でも、人間としての心の豊かさより、経済的な豊かさを優先する風潮が見られる。自分は自分のできることで豊かな心を持つ子どもたちの育成に貢献したい」と力強く語りました。彼はいま、障害があるお子さんの福祉施設を立ち上げ、信念に従いながらさらに前に進もうとしています…。

自己紹介が遅れました。一般社団法人レジリエンスLABO(レジLABO)の松浦俊弥と申します。千葉県千葉市にある淑徳大学で特別支援教育関係の教員養成を担当しています。

レジリエンスとは一般的に「回復力」「復元力」「再生」などの意味で用いられることが多くなっています。最近メディアでもよく聞かれる言葉ですね。LABOとは研究室などを意味します。変化の激しい今の時代、社会を支える一員として再チャレンジを考えている組織や企業、団体、施設または一人一人のレジリエンスを生み出していくお手伝いをする研究所、それがレジリエンスLABOです。

大学の教員ですので、教え子たちの様々な相談に乗ることはもちろんですが、これまでの知見を活かしながら今も複数の市町村で相談員を務め、また縁のあった企業、福祉施設、市町村教育委員会や学校、そして個人の相談にも対応しています。その範囲をさらに広げ、依頼があれば相談者の強みを生かしながら全く新しい視点で解決策、改善策を見出し、真の「豊かさ」を共に追求していきたいと考え、志を同じくする頼もしい仲間たちと社団法人を立ち上げました。そんな私のレジリエンスはいつどこでどのようにして生まれたのか。少しお話ししましょう。

今から27年前、現在の放課後等デイサービスの原型となった「障害児放課後クラブ」を千葉県に立ち上げました。田園地帯にあるその家屋周辺には、秋になると優雅に多くのトンボが飛び交い、夕暮れ時には幻想的な風景を醸し出していました。その光景から施設を「あかとんぼ」と名付けました。1998年4月、あかとんぼは開所式を迎え、この日を迎えた保護者の目には涙があふれていました。

当時、近くにある養護学校(今の特別支援学校)で教員をしていた私は、1997年の夏休み直前、保護者面談で衝撃的な話を聞きました。

「介護の必要な高齢の家族がいて夏休み中の子どもにまで目が届かない。自閉症の我が子はちょっとしたことが刺激となり他者や自分を傷つけてしまったり屋外へ飛び出そうとしたりする。やむを得ず、泣きながら我が子をいすに縛り付けた」
「一人で屋外に遊びに出すことは難しく、自宅の扉には何層にも鍵をかけている。他の子どもたちが外で遊ぶ様子を窓からずっと眺めている。その後ろ姿に申し訳なく思い、母親として罪悪感を抱いている」
「夏休みに家族で旅行をした思い出がない。障害のある子を連れて外出することが難しく、他の兄弟姉妹にも辛い思いをさせてしまっている」
「近所の小学生たちは夏休みが終わると真っ黒に日焼けして始業式を迎えるのに、障害のあるわが子は休み中をずっと屋内で過ごすので、逆に肌の色が落ち、真っ白になって始業式を迎える」

みなさん、障害がある子どもたちが1年間で一体何時間、学校へ通っているか、計算したことがありますか?小中学校でも特別支援学校でも、出席を要する日数は概ね200日前後のようです。自治体や学校ごとに差はありますが、ここでは1年間に200日、通学すると考えましょう。そして特別支援学校の登校時間が朝9時、下校時間が午後3時だとしたら、1日に在校している時間は6時間となります。

多くの特別支援学校ではスクールバスを子どもたちの送迎に運行させていますが、乗車時間を平均的に登校で1時間、下校で1時間とすると、子どもが保護者の手を離れるのは計8時間程度になるはずです。年間200日×8時間、つまり子どもが1年間、学校に通うために家庭を離れる時間は大雑把な計算で1600時間になります。

しつこく計算を続けて申し訳ないのですが、1年365日×24時間で8760時間になります。そう、子どもが学校いる時間は1年間の5分の1以下、1600時間を1日24時間で計算すればわずか67日間になります。1年365日のうち、家を離れているのはトータルで67日分の時間であり、残る約300日分は当時、ほとんど自宅にいる時間となっていました。当然ながら子どもを在宅時間に見守るのは家族の役割となり、さらに言えば20世紀の終わりではそれはまだ「母親」の役目になることが多かったのです。

地域の小中学校や高校に通う子どもたちはある年齢になれば一人で友だちと遊びに出かけ、また部活動で汗を流し、家にいる時間が成長すればするほど短くなっていきます。子どもによっては放課後児童クラブ(学童保育)に通ったり、習い事に通ったりもします。年齢を追うごとに保護者が子どもを直接見守る時間は減っていきますね。

ところが障害があるお子さんが学校に通う以外に自由に外出したり地域で遊んだりする権利、保護者が子育てから解放されて自分の時間を確保したりする権利は、子どもがいくつになろうと当時は全く保証されていませんでした。勤務先で関わる子どもたちは天真爛漫に笑顔で学んだり遊んだりしていましたが、教員として彼らの家庭生活や地域生活の貧困さにまで目を向けることをしてこなかった私は、夏の面談から初めてその現実に触れ、保護者、特に母親の苦悩を知り、とてつもない衝撃を受けました。同時に、その現実に目を向けてこなかった自分が「教育者」を名乗っていることに恥ずかしくなりました。目の前に厳しい現実を抱えた家族がこんなにたくさんいたのに自分は何をしていたのか、と。

1997年7月、目には見えない何らかの大きな「力」が、障害がある子どもたちの教育者としてのレジリエンスを揺り動かし始めました…。

(次回に続く)