こんにちは。今回はまた少し放課後等デイサービスの原点と言われる障がい児放課後クラブ「あかとんぼ」を作ったころのお話しさせて下さい。
当時、養護学校(いまの特別支援学校)に通う子どもたちの生活は、家庭と学校をスクールバスで往復する毎日でした。障害のない人々には当たり前の存在になっているかもしれない「地域」「第三の場」という概念がありませんでした。
多くの人々は日常生活の中で家庭と保育園や幼稚園、学校や勤め先などを往復し、アフター5や休日には家族や親しい友人と過ごし、好きなところへ出かけたり近所の友だちと遊んだりすることが多いと思います。成人であれば働いた後に同僚と居酒屋へ行き杯を傾けることも有意義な時間となるでしょう。
家族や友人とレジャーや買い物に出かけ非日常的な時間を過ごし、親しい者同士で語らいながら飲食を楽しむことは日常の心身の疲れを癒すことにもつながります。場合によっては職場のストレスを発散する機会にもなるでしょう。そのような機会があってこそ日々の勉強や仕事にまた励もうとするモチベーションが高まります。このようなスパイラルを繰り返しながら私たちは日常を生きていることが多いように思います。
しかし、20世紀が終わろうとする1990年代、私が養護学校の教員として勤めていた頃は子どもたちに「第三の場」はほとんどありませんでした。朝起きて学校へ行く準備をし、保護者がバス停まで送る。バスに揺られ学校に着き先生や友だちと勉強をする。下校時にはまたバスに揺られ同じバス停に戻り保護者が迎えに来る。このサイクルの中に地域という概念は徹底的に欠けていて、養護学校の子ども同士が放課後に地域で遊びあう風景は全く見られませんでした。地域の学校に通っていませんので当然地域に友だちはおらず、障がいの有無にかかわらず遊びあう風景なども見られません。彼らには学校、家庭以外の「第三の場」が完全に欠けていました。
1997年の夏、車を運転中、ラジオからある評論家が「地域」というキーワードを繰り返していた時、ふと障がいがある子どもの「地域」とは何だろう、という疑問が頭に浮かびました。そして障がいのないお子さんにはほぼ保障されている地域での自由な遊び、自由な世界が障がいのある子には保障されていない現状に気づき愕然とすると同時に「これは何とかしなくては」と考え始めたのが、実は「あかとんぼ」誕生のきっかけのひとつでした。
「あかとんぼ」が誕生したあとの子どもたちやご家族の変化についてはこれまでもブログで述べてきましたが、運営者である私が心がけたのは「学校や家庭でできないことをやろう!」でした。比較的ローカルな場所にある広い敷地の古民家でしたので、休日には家族も参加して子どもたちでバーベキューパーティーをやったり、雨が降れば泥遊びに興じたり、自転車で地域を走り回ったりしました。
そのうちいくつかの家族からうれしい報告がありました。「今までは学校で溜めたストレスを発散したかったのか、下校してくると家の中で暴れることが多かった。あかとんぼができてから夕方に家に帰ってくると笑顔で入浴、食事を済ませ、すとんと眠るようになった」。
学校は良くも悪くもストレスの溜まりやすい場所です。静かに授業を受けたくさんのことを学ぶ際にももちろんストレスがかかりますし、人間関係に揉まれるストレスもあります。それまではそんなストレスを発散する場所は彼らにとって家庭しかなく、その受け皿となるご家族もたいへんな思いだったのでしょう。
しかし「あかとんぼ」で友だちと一緒に自分のやりたいことをやり、経験したことのないイベントに参加し、思う存分身体を動かすことができる。心も体もリフレッシュでき、ここでストレス発散ができれば、家庭は本来の目的でもある安らぎの空間となります。子どもも家族も笑顔で触れ合え、互いを尊重する気持ちがより高まるでしょう。
そうなんです。多くの人が経験していた「第三の場」が養護学校の子どもたちにとっては「あかとんぼ」だった。学校や家庭で経験できなかった「育ち」の中で最も重要な「友だちと地域で遊ぶ」経験を「あかとんぼ」が保障できた。そして家族や子どもに笑顔が増え、各々の生活が豊かになる。この実績が評価され、千葉県では同じような「第三の場所」が増え、やがては放課後等デイサービスとして国の制度になっていきました。
当時、社会人として大学院に通っていた私は地域福祉に関する授業を通じて「第三の場」の意義、重要性を学び、より「あかとんぼ」の価値を知り「学齢期障害児の放課後活動」という論文で「第三の場」の重要性について強調しました。そして学校教員でもあった私が中でも最も重視したのは前述した「学校ではできない学びをする」ことと「学校の学びを社会に一般化させる」という2点でした。それは具体的にどのようなことだったのでしょう。
この続編はまた次回に!
以上