前回、父親たちの葛藤について触れましたが、今回は母親たちのポテンシャルに触れたいと思います。

 1998年に障がい児放課後クラブ(今の放課後等デイサービスの前身)「あかとんぼ」を立ち上げ、テレビや新聞に取り上げたられたことから、様々な地域の親の会から声がかかり、「あかとんぼ」設立の経験談を講演しに回りました。それは大きな会場での講演というよりも、主に母親たちとの座談会の延長とでもいったようなアットホームな場ばかりでした。

 千葉県内のある保護者団体に呼ばれ、小さな会場で数名の母親たちに囲まれながら「あかとんぼ」を設立しようと思ったきっかけから立ち上げに向けた経緯を話し、母親たちは興味深げに熱心にメモを取りながら耳を傾けていました。特に私が養護学校(今の特別支援学校)の母親たちと協力し、役割分担しながら目標を目指してともに活動した点に彼女らは注目したようです。そこで私は次のような話をしました。

 「大学院の恩師に重い障がいがあるお子さんを育てている方がいた。ある日、彼は授業でこんな問いかけをした。障がいのない兄が『参考書が欲しい』というので2000円を渡し「頑張れ」と声をかけた。障がいのある弟には毎朝、私がサポートして服のボタンをはめる練習をし、1年間かけてようやくできるようになった。さて、どちらの親の方が立派だろう?」。

 「私は即座に『弟さんにボタンをはめる練習を続けた親の方が尊い』。教授は言った。そうだ。障がいのない子を育てるよりも障がいがある子を育てる親の方がランクが上なんだ。車の免許でいえば二種免許。親のプロフェッショナルなんだ。障がいのない子の親もプロフェッショナルを目指すべきだ。子どもと小さな目標を目指してこつこつと努力していけるような子育てが理想なんだ」。

 座談会でこのような話を披露した途端、メモを取っていた母親たちの手が止まり、一斉に泣き始めたのです。私はびっくりし「なぜ泣いているんですか?」と聞きました。しばらく泣きじゃくっていた母親たちの中の一人が、やがて静かに話しだしました。

 「私は障がいがあるわが子を授かり、これまで一生懸命育ててきた。しかし周囲は『障がいがある子を産んだ』ダメな母親として常に私を評価していた。家族もそうだった。夫からも『お前が悪い』といわれ、その両親からは『妊娠中に酒や薬を飲んだのではないか?』と厳しく当たられ、自分自身も『私はダメな母親』と認識していた。1度も母親として評価されたことはなかった。でも今初めて『障がいのある子を育てている親はプロなんだ』といわれた。ようやく報われた気がする。ありがとうございました」。

 これは25年以上前の話ですので、いま読まれている方は違和感を持たれるかもしれません。しかし当時の社会の認識はそうでした。いまでこそ特別支援学校は人気の学校となり、入学希望者が殺到して日本全国、どこも過密化(在籍児童数が収容規模を超えている状況)で大変な状況なのですが、当時は養護学校へ行くということは前回の記事でも触れたように、あまり好ましく思われていなかったようです。「障がいがある」ということがネガティブな評価をもって語られていたかもしれません。

 また障がいの有無にかかわらず子育ては大変なことであり、どちらが優れているかなどの議論には意味がないでしょう。当時は支援策も充実しておらず、放課後デイの制度もなかったことから主に母親が自らの生活を犠牲にしながら子育てに当たり、中にはゆっくり自分の時間を取ることもできない多忙さの中で、さらに社会から容赦のない差別や偏見、誤解を受けていました。「障がいのある子どもの子育ては素晴らしい」などと評価をされることは本当になかったのだろうと思います。

 この母親たちの会はその後、瞬く間に「あかとんぼ」同様の放課後の生活の場を地域に作り上げました。彼女らのポテンシャルの高さを思い知り、どこかでスイッチが入れば、母親も父親もその人生の経験値を最大限に生かしながらそこにない新しいものを作り上げることができる。その凄さに圧倒されました。そしてこの動きはやがて千葉県中に広がり、多くの放課後の場があちらこちらに立ち上がりました。

 私はいま、大学の授業で自分の体験談をよく話します。大学には障がいがある兄弟姉妹を持つ「きょうだい」の学生が多数います。彼らは障がいがある子どもの親の話をすると、自らの幼少期を思い出し、改めて両親の凄さに気づきます。そして自分がいたようなそんな家族を支えたい、と考え、特別支援学校の教員を目指す道を選びます。

私はそんな学生たちに必ずこう声をかけます。「あなたがいま障がいがある子どもの先生になりたいと願う気持ちはご両親や障がいのあるごきょうだいがいたからこそだ。あなたの人生を決めるきっかけとなった家族の存在に心から感謝しなさい」。こうして今年も50人を超える卒業生が千葉県だけでなく全国各地の特別支援学校教員となり巣立っていきました。

 家族や地域が変わるその原動力は、障がいがあるお子さんたちの存在にこそあると信じています。彼らの人生を意味のあるものにするためにも、私たちは教育や福祉の成り行きに注目し、自らの力でおかしいと思ったものを変えていく、新しく作り上げていく、そんなアクションを起こしていく必要があります。家族のみなさんもぜひ共に、豊かな未来を目指し歩んでいきましょう!

以上