新聞に次のような記事がありました。身体に障がいがある高齢の方が戦前に徴兵検査(兵隊として招集できる人間かどうかを調べる検査)を受けさせられた際、不合格である「丁種(ていしゅ)」(検査の結果を昔の成績表記である甲乙丙丁で表す・甲が最優秀で丁が不合格)といわれ屈辱を感じた。外見から障がいがあることが一目瞭然であるのになぜわざわざ検査を受ける必要があったのか。多くの人々の前で不合格のレッテルを張られなければならなかったのか、と。

 専門家は「障がいがある人は社会にとって役に立たない存在であることを知らしめる意味があった」というような解説をしていました。明治維新(1868年)から太平洋戦争(1945年に終戦)まで、日本は徴兵制(男性はある年齢になると特段の理由がない限り必ず兵隊にならなければならない制度)を敷いていました。徴兵検査にはたくさんの男性が訪れ、裸になって検査を受けるのですが、障がいがある人もその場で同じように裸になり同じ検査を受け、そのうえで不合格と声高に評価されることがあったようです。

 徴兵検査が必要になるような時代には二度となってほしくはないですが、それにしてもこの国は江戸時代の士農工商という身分制度が代表するように「あの人よりはまし」「あの人よりは上」というように他人と自分を見比べさせるような制度を様々に作ってきました。為政者は「あなたはあの人よりはましなのでもう少し我慢してください」と民に忍耐を強いる政治を行うために「差別」を利用していた可能性も伺えます。

 障がいがある人の生き方を見て「あの人でさえ頑張っているんだからあなたはもっと頑張らなくては」と人に語り掛けるシーンをドラマなどで見かけることがあります。障がいがある方は人々と比較されるために存在しているわけではありません。それぞれがそれぞれの思うように生きていればそれでいいのではないでしょうか。

 以前のブログで心の病を持つ子どもが通う院内学級担任である知人の話をしました。知人は国語の時間に子どもたちに資料を順番に読ませる際、音読に自信がない、あるいは場面かん黙(人前では言葉が出づらい)などの子どもには自己申告させ、読む場所を指でなぞれば代わりに先生が音読するというルールを作りました。他の子どもと同じ環境でその子の課題に応じた方法で「発表」させる、という考え方です。

 院内学級で学ぶ子どもたちの中には様々な特性から人前で発表することが苦手であり、国語の時間に音読の順番が回ってきても上手に読むことができず、先生から意図的に順番を飛ばされたり、たどたどしく音読する姿を友だちに笑われたりして失敗体験を重ね、不登校になったり心の病が重くなったりしたケースもあります。

 苦手なことを人前で発表しなければいけないのは当人にとっては地獄のような出来事でしょう。私も記憶があります。人前に出ることが苦手だった小学生の頃、苦手な算数の問題を黒板で解けと言われ、間違った答えを書き友だちに大笑いされたり、運動が苦手だったのに鉄棒や水泳の「試験」を友だちの前で課せられ失敗し馬鹿にされたり。

 最近でこそ個人の人権を尊重するということで技能教科では人前で発表させる機会が少なくなっているようですが、それでも小学校を訪問する機会に授業の様子を見ていると、子どもたちが人前で発表させられる機会を見かけることがあります。また、これも以前に少し触れたことがありますが、絵や書道、作文など個人の作品を教室内に「平等」に展示している教室は多くあります。

 子どもにとって苦手な事物を人前で発表させられたり飾られたりすることは何としても避けてほしく、また他の子どもたちは純粋ゆえに発表の失敗や上手ではない作品を見ると笑ったり馬鹿にしたりします。お笑い番組で運動や絵画が苦手な芸人の奮闘を馬鹿にするのと同じ光景が教室にも見られます。

 同じ場で同じ条件で同じく発表を強いられることは果たして真の「平等」なのでしょうか?一時期、運動会の徒競走で着順を決めないようになった時代がありました。様々な意見があり、いまは復活しているかもしれませんが、子どもの能力で優劣をつける機会を作らないとする当時の教育関係者の努力には頷けます。

 障害者差別解消法ではすべての社会で障がいがある方に合理的配慮(障がいのある人が平等の権利で参加するため必要な特別な手立て)をしなくてはならないことになっています。インクルーシブ教育(障がいのある子もない子も共に学ぶ教育)の理念が広がり、多くの学校で一つの教室に障がいだけでなく外国人であったり病気であったりするなど様々な子どもが共に学んでいます。

音読が苦手な子どもが、例えばタブレット画面でその部分を指でなぞれば音声が出るようなアプリを使えば「音読(音を出して読む)」できることになります。また絵を描くことが苦手な子どもは自らの構図をAIに問い、どのような絵を描けばよいか相談すればヒントをくれるでしょう。作文が苦手な場合も同様です。AIからヒントを得て文章を自分なりにまとめていくことは文科省がAI教育に求めている技能の一つです。

様々な合理的配慮を講じてその課題に対し共に参加できることが「平等」なのだと思います。そこをはき違え、誰かを見下しながら自分の立場に安堵するような社会のあり方は冒頭に述べた徴兵検査の時代とあまり違いはありません。知人の院内学級の先生のように、あえて本人にとって辛いシチュエーションを作らず、一人一人ができる方法を駆使しながら同じ場で学ぶ大切さを教えていく。そんな学校教育がすべての教室で必要なように思います。

以上